無為自然〜物事に意味づけをしない

心が乱れるようなちょっとした面倒な出来事が続いた時など、身体の弱い部分にトラブルが発生します。わたしは特に眼にトラブルが現れることが多いですね。

5日ほど前には、不用品発送の手続きでのトラブル、荷物がバラバラに届いたりなど、多少神経を尖らせることがありました。また、創作活動のためのコンピュータ選択。コンピュータといっても音楽の場合は特殊ですので、家電量販店でサッと購入するわけにはいきません。明け方まで、悩みを巡らせることになりました。

今は一段落しておるのですが・・一昨日から結膜下出血が12年ぶりに発症。これは別段痛くも痒くもないのですが、血管が切れて突然真っ赤になるもので、体裁悪し。(上写真です。お見苦しくてすみません。)

同時に口内炎も起こしておるので、過労が原因だと思います。(その日に重いものを持って買い物から帰ったことも原因かも。)若い時なら、毎日朝の5時まで労働してもなんともなかったことが、高齢になるとついていけなくなるのでしょう。今は5時なんて余程のことがない限り、起きていられません。それでも、Hpの不備、その他ごちゃごちゃ調べたり考えたりしていると、2時半くらいまでかかってしまいます。

一件落着したので、大地に呑まれるように行動すること、改めて開始いたしました。わたしにとっては、創作の渦に呑み込まれることでしょうか?これは「自分が好きなことに邁進する」のではなく、与えられた道を歩むことを意味します。

2010年〜2020年くらいまで、わたしには道がありませんでした。他人さまが良いと思われていることでも、自分にとっては全く意味がないことの連続でした。先が見えないといいましょうか?何をどうしていいのかわからない状況でした。しかし、現在は当時の人間関係は(決して良いものではありません)ゼロになり、苦痛がなくなっただけではなく、道をみつけることができました。

不思議なことに亡き母が生前中話してくれた「夢の話」が現実となっています。

マインドフルネス瞑想をはじめたのは2019年でしたが、練習を重ねるうちに、物事に意味づけをしないことが必要とわかってきました。これをやったから何かがもらえるとか、将来役に立つことをしようとか、お金を得るために労働をしなければならないなどなど・・何かのために何かをやるといった当たり前の考えから解き放たれることが、本来の自分の道であり、創作の源であると少しづつ気付かされてきました。

それが老子の「無為自然」の思想であると知ったのは少し前です。

過去に短期間、音楽の世界を離れた時期がありました。離れたことによって、自分を外側から眺めることでき、本来の自分に戻ることができたのだと思っています。当時は誰からみても不本意なことをやっていたと思います。しかし不本意な蛇道が間接的に、今につながっていることを思うと、無駄ではなかったと思えます。

うまくいかないことがあれば、一旦お休みをする、遊ぶ、どうしても体力が追いつかないときは諦めて寝る。このような勇気が重要なのだと最近は思います。わたしは、もう少しもう少しと頑張ってしまう性格ですので、そのツケが弱い部分に現れるのでしょうね。

今ひとつ、手放す力を増強する必要があると思っている最中です。

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